テキスト ボックス:  【親鸞と法然の絆佛】

                                                   ※ 考査 

                       〔歴史的背景・1〕

                                〔念仏と旧仏教〕

平安末期、法然房源空によって開かれた浄土信仰の専修念仏は都を中心に一般の民衆に大きな影響を与えた。

選ばれた者や限られた者だけの仏教だったものが貴賎の上下や身分の隔てなく誰でも平等に救済されると解く

教えは旧来然とする南北の旧仏教派の欺瞞性を露呈させた。信頼を失い、人心が離れると益々乱れ一層荒廃し

興福寺や延暦寺の衆徒や僧が徒党を組み、念仏排斥を唱え朝廷に弾圧するよう繰り返し要求した。  驕る平家が

壇ノ浦で滅んだ後、源氏の時代になってもその勢力の攻撃は止まず僧兵を伴った神輿を担いでの強訴や横車に

朝廷も逆らえず専修念仏の停止を度々出したがその朝廷を支える多くの貴族までも民衆と共に法然の門に参じて

教えを聞いて念仏を唱えるという有り様に貴賎を問わず専修念仏は瞬く間に人々の間に広がって行った。

 

法然の解く教義は簡単に往生の念仏を唱えるだけで何の難しい経など知り、読む必要もなく戒律など構わず

“悪人なおもて往生をとぐ”と阿弥陀如来の他力の本願を信じただ一向に念仏すべしと民衆に説いた。有名な

大原談義にみる法然との問答は仏教学識において並ぶものが無く他の宗派の学僧を圧倒せしめ、あまつさえ

集まった僧ら一同が三日三晩高声念仏を唱えたという、“知恵第一の法然”と言われた由縁である。

 

この出来事は堕落した見栄体裁だけの虚栄の中にいて、その既得権が脅かされる坊主共をうろたえさせ、且つ

刺激した。法然の念仏が広まるにつけ門徒が増え、信徒が増えると共に教えと行動が一人歩きし始める、

それが旧仏教を怒らせ念仏停止の強訴等の八つ当たりを生じせしめた。法然は七箇条の起請文(禁制)など

出して思い違いやその行動を慎しませた。度重なる強訴に朝廷も思案げであったが山門と興福寺は奉状を出して

念仏停止を求めた。告発状は解脱貞慶が起草、旧仏教の支配権力と国家権威の論理を楯にその既得権と支配権が

脅かされると、信仰の文面に名を借りて念仏排斥を並べ立てたが念仏は人々の口から止む事はなかった。

 

                                                          〔法難と流罪〕

 

念仏が世間を凌駕している最中、上皇行幸中の宮中女人が無断で念仏の会に出て外泊、その中の二人の女人が

髪を降ろして出家した。怒った上皇に念仏に名を借りた密通であると密告するものがあって上皇を恐れた朝廷

は念仏停止の奉状の事もあり、これを理由に弾圧の挙に出た。念仏会に出ていた門弟を捕らえ不行き届きを

理由に専修念仏を停止、関係した四人を死罪にし法然ら八人を流罪とした。後鳥羽上皇は念仏や法然嫌いの

高弁明恵を寵愛し栂尾高山寺を授けるなど、その影響から専修念仏にもよい思いは抱いていなかった。法然と

親しかった前関白九条兼実らが救解を求め嘆願したが一旦出された決定は上皇の手前もあり受け入れられな

かった。善信(親鸞)も最初は死罪だったらしいが一族の日野親経等が善信(親鸞)のため評定に於いて辨じた

結果、流罪になったという。善信は日野範宴といい母親は源氏直系源義親の女、吉光と云われている。本当だ

とすれば頼朝の大伯母にあたる。 この評定の間に朝廷にも変化が現れた。死罪の四人とは別に法然以下の罪の

処分に情状が伺える。世情の声も無視できなかったのともう一つは源氏勢力の圧力である。先の九条兼実や

北条政子ら法然への傾倒者も多く鎌倉にいる頼朝の姿に朝廷もその力を無視する訳には行かなかった。その事

は朝廷が法然ら七人を四国の土佐へ流罪、善信(親鸞)を越後へ流罪としたことで判る。流罪を建前だけの内容

に変えさせると共に、彼らを源氏の勢力下の地方に擁護させたと思えるのである。土佐と越後、この流刑地の

選択は偶然ではない、この両方とも鎌倉幕府の御家人の最実力者、近江源氏の佐々木一族の守護地である。

近江の佐々木氏は延暦寺との間に確執があり、その為に一族の定重が斬られ定綱ら三人は薩摩へ流刑と

なった。その怨念もあり黙ってはいなかったであろう。頼朝が旗揚げしたとき赦免されると一族は結集しその

旗の下に馳参じ数々の戦功を挙げ、今や一族は近江国の他、各地の守護を務めていた。定綱が近江国を中心に

長門と石見の守護と京の検非違使。経高が淡路に阿波、土佐国の守護。盛綱は越後と伊予国の守護。義清が

出雲国の守護と要職について大勢力を誇っている。延暦寺の僧兵など敵ではなかった。善信(親鸞)の流刑地の

越後は辺鄙な地といへど豊かな穀倉地帯で鎌倉幕府の直轄地であった。善信の流罪地での行動や、後での親鸞

説話等を分析すると、越後という流罪地の選択は自ら求めたのか、或いは源氏一党の助言であったのかは解ら

ぬが、一つには東国の塩原で自害して果てた源三位頼政の幼き孫の有綱の追善供養を行う為ではなかったかと

思われる。平家打倒の旗を上げたが時期熟さず親子三代討死にした。(越後と塩原逸話)

源氏の時代になった今、彼らの霊を弔うは源氏一族として当然であった。範宴(親鸞)の縁戚関係や身上を

調べると、源氏との結び付きと思われる事柄がいくつもあって、ことに源三位頼政との関係が浮上する。

(1)範宴は皇太后宮大進・有範の長子として承安3年(1173)に生まれた。母は源氏直系の源義親の女、

   吉光と云われている。本当だとすれば頼朝の大伯母にあたる。有範の上の兄、範綱は後白河法皇に仕え

   若狭守に任ぜられ、次兄宗業は文章博士で従五位式部大輔を務め高倉以人王の学問の師で源三位頼政と

   意を通じていたという。源三位頼政が平家に対し高倉以人王を擁し治承4年(1180)に源氏の旗上を

   決行したが失敗、頼政は王と共に宇治川の合戦で討死、子の伊豆守仲綱も討死し、孫の有綱は追われて

   塩原で自害し最期を遂げた。高倉以人王の首改めに宗業が平氏に呼び出され王を確認したと言う。

   源氏の直系の女を妻に持つ有範も、好むと好まざるとに関わらず平家の監視の中にいた。母である人が

   亡くなったこともあったので治承5年(1181年)に幼き子を9歳の範宴を筆頭に次々と出家させたと言う。

(2)法難と流罪(先記)

(3)流罪地の越後で、落人となっていた頼政の郎党、渡辺党の競の妻子との出会い。

   (渡辺一党の競、省、授の兄弟は宇治川の合戦で討死)

(4)後、東国へ赴いたときやはり源三位頼政の子孫という常陸の下妻にいた下間氏との出会い。

   この下間氏は後、親鸞の従者となる。

 

                                    〔法然の流罪と弘法大師〕

 

法然も自らの土佐国への流罪についてはそれほど悲しんではいない。法難や門弟を死罪にした理不尽に対して

は別だが流罪を嘆く人々に法然は「辺土の利益を思えば朝恩なり」と、これも念仏を広める喜びと称しむしろ

これから行く流罪地の選択に四国を指し望んだと思われる。都に来て以来、畿内以外は善光寺ぐらいしか出な

かった法然はこの機会に心に留め置いた仏道の先人、弘法大師(空海)の足跡を訪ねることであった。

密教はさておき民衆に大きな影響を与えた済世利民の行跡や人々から沸き起こる同行思想は法然をして随一学

ぶべきものであったのであろう。 これより先、法然は東大寺再建の「大勧進職」を求められたが弟子でも

あった高野聖の中心人物、俊乗坊重源にその職を譲り推挙した。 この重源は弘法大師と同じく厳しい修験の

行を積み宋に渡ること三度「入唐三度聖人」と称された人物である。平安後期この高野山に阿弥陀信仰の専修

念仏が入ると真言密教と結びつき真言念仏が生まれその中で独自の同行、同朋集団を形成していたのが高野

聖であった。高野聖とは弘法大師の霊験を唱導しながら大師と結縁する納骨や参詣を進めまた勧進を行い諸国

を遊行した。法然はそのような重源の行動力と組織力に大きな期待をかけていた。彼や高野聖が大仏再建の

ため全国へ出向いて行く浄土信仰や念仏もまた彼らと共に地方に野火の如く広がって行く、いまさらながらに

そのことを重ね弘法大師に思いを巡らしその偉大さを知ったことだろう。重源は無事、大事業を成し遂げその

落慶法要には法然を導師に招き修したという。

法然は流罪の折、流刑地の土佐へは行かず讃岐の地で弘法大師の生誕地の善通寺等の足跡を訪ね歩いている。

赦免後も弘法大師の縁寺の勝尾寺に長逗留していることなどから弘法大師に対する法然の思いが偲ばれる。 

法然が弘法大師(空海)に抱く思いは自らに無いその行動が故の差だけであろう。悟りを開き、仏教を極め、

自らを大日如来の生れ変わりと信じ遍照金剛と仏号し真言密教こそ仏道の頂点と言い即身成仏を身をもって

成した人。真言密教さえ熟知していたと思われる法然にしてこの偉大な先達に“愚痴の法然”と嘆く一面を

対比させる。この弘法大師の真言密教と阿弥陀如来の他力本願の接点こそ法然が見た生死感を超越した

専修念仏の心であった。

 

             〔法然と弘法大師座像と善信(親鸞)

 

法然は流罪を前にして一人越後へ行く善信(親鸞)にも自分の存念を告げ万感の思いを込めて持仏の弘法大師

座像を手向けに授けたのであろう。 その像の背中に貼られた小紙片の梵字で書かれた観世音菩薩(救世観音)

の真言の字体の謎もわざわざ縄床の下に隠飾りを付け、その奥に貼られていた二枚の小紙片に南無阿弥陀仏の

六字の名号と法然の名が記してあった謎もこれで明らかになる。念仏排斥の折、それも流罪下、誰にも見とが

められないように細心の注意を払って密やかに弘法大師座像の背中に観世音菩薩(救世観音)の梵名「サ」を

二字目に入れた特別な真言を配した紙片を貼り付けた。観世音菩薩(救世観音)は善信(親鸞)の示現仏である。

化身した阿弥陀仏の姿と共に法然はそのことを知っていた。ここにも法然の思いが読み取れる。

 

          考査【1】 物証(字体)の検証より〔真言・梵字体の比較〕=写真

 

その下裏に自らと弟子の善信(親鸞)のため六字名号二枚を貼り付けた。此れは師の思いやりと、いつも一緒で

あるという決意でもあった。弘法大師との同行精神、法然と善信(親鸞)の同朋精神が息づいていて法然の全て

、浄土思想の原点がここに凝縮されている。これが後に親鸞と民衆の同朋精神へと導かれて行くのである。

文章に残さなかった法然の教えは此の三つの像だけて事足りるのである 臨終の際に源智に書いた“一枚

起請文”よりもっと単純にして奥の深い啓示であった。法然七十五歳、余命のことは誰知る由もない。これが

師弟の終生の別れになるかもしれない。事実二人は此れが最後の別れになった。覚悟の中、法然が善信(親鸞)

に託する心、その心にたとへ地獄へ落ちようとも法然の言動を信じまいらせそうろうと全幅の信頼を寄せる

弟子善信の姿。首懸厨子の観世音菩薩佛像【阿弥陀仏化身・法然】、鍍金押出仏の阿弥陀三尊仏共々、善信(親鸞)

身につけた宝であったが、密かに貼られていた三枚の小紙片のことは親鸞とて知らずにいたかも知れない。

 

                        〔愚禿親鸞と東国行き〕

 

法然死後も浄土宗に対する排斥は治まらなかった。そのような中で京に残っていた高弟らによって行われた

法然の法要には、鎌倉仏師が彫った阿弥陀如来像の体中に入れる経巻に頼朝以下、源氏一族から貴賎道俗に

いたる多くの人々が喜捨に名を連ねた。このことからも法然の法要は法然の遺誡とは別に政治的に大いに利用

された事が解る。しかし旧仏教派の浄土宗に対する弾圧は止むことは無かった。法然死去の訃報を聞いた

愚禿・善信は既に赦免を許されていたがすぐには戻れなかった。手続きをして急ぎ京に戻ったが

(既存の歴史では帰っていないと論ず)愚禿・善信を待っていたものは浄土宗に対する誹謗と弾圧であった。

法然が関白九条兼実に請われて随一著した「選択本願念仏集」を、法然嫌いの高弁明恵(後鳥羽上皇から院宣

を受け栂尾の地を贈られ高山寺=華厳宗を創建した)が「摧邪輪」「摧邪輪荘厳記」等で〈安易な書で受け取

る者が勝手な解釈をする・・〉と批判し、返す刀で〈法然は探智あれども、文章を善くせず・・〉などと中傷

していた。口惜しい思いは善信だけではなかった、高弟皆その思いであった。院の後ろ盾をいいことに“死人

に口無し”の高弁明恵のやり方に師思いの善信は我慢が出来なかった。流罪となった時の様が蘇ってくる

「ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証ひさしくすたれ、浄土の真宗は証道いまさかんなり。しかるに

諸寺の釈門、教にくらくして真仮の門戸を知らず。洛都の儒林、行にまどいて邪正の道略を弁ずること無し、

ここをもって興福寺の学徒、太上天皇(後鳥羽院)、今上(土御門天皇)聖暦、承元丁卯歳、仲春上旬の候に奏達

す。主上臣下、法にそむき、義に違いし、いかりをなし、うらみをむすぶ。これによりて真宗興隆の太祖源空

法師ならびに門徒数輩、罪科を考えず、みだりがわしく死罪につみすあるいは僧儀を改め、姓名をたもうて

遠流に処す、予はその一つなり、しかればすでに僧にあらず俗にあらず、このゆえに禿の字をもって姓とす、

・・・」 善信が法然の名を汚されて擁護も出来ず、高弁に反論も出来ぬ悔しさに浄土思想の理論武装をする

ことを心に決めた。これが東国行きの大きな原因になる。法然の「遺弟同法ら一カ所に群会すべからずという

」遺誡に法然の高弟達もそれぞれの思いで浄土思想の理論を形成せんと故郷へ旅立つ者、京に残る者と別れて

いった。東国行きを古今の本願寺教団は布教に赴いたと伝えるが、親鸞の足跡をたどり彼の思想や理念の分析

を認識すれば違う行動様式が解る。都に居て浄土思想の理論武装するには知識がいる。それには仏典の資料が

必要であった。それは仏教の総典「一切経」を紐解くことであった。しかし今の善信には畿内にある大寺の

「一切経」を願って閲覧を請う程の力は無かった。早急に僧籍復帰の手続きを得る必要があった。僧侶の支配

は総国分寺(東大寺)にて管理していた。東大寺の僧達には師の法然の影響も強く幸いにも好意的に僧籍復帰

ができた。既に子を持つ親になっていたので名を“親鸞”と改め、自ら愚禿・親鸞と名乗り「一切経」の所在

を求めて京を歩き巡った。貴族、藤原一族の日野氏の出身が役に立ち、古くから藤原氏の所領がある東国の

常陸の国分寺に「宋版一切経」の存在を知った。

(後、常陸の豪族、笠間氏が「宋版一切経」を所蔵し、その後、鹿島神宮に収められた)

 

高弟の一人、弁長(べんちょう)字は弁阿(べんな)房号は聖光房(鎮西上人)浄土宗第二祖。鎮西派の祖。

著「浄土宗要集」「徹選択念仏集」などがある。彼もまた一切経蔵を求めて九州に赴いた時の記述が残っている。

『弁阿西国ニ下リ諸ノ経蔵ヲ尋ルニ、ムナカタノ社ノ一切経蔵ニ 、大乗荘厳経ヲ勘ルニ、其ノ中巻ニ

十方恒沙ノ諸仏出二 広長ノ舌相ヲ 一証誠シ玉フノ文明カニ有レ之』という

彼も九州念仏広めたが、第一の目的は浄土三部経と法然上人の正当化を表したものである。

これらは弁長(べんちょう)の行動に見ると親鸞といい当時の高弟達の行動が何を目的としたかが見てとれる。

 

親鸞は所領者一族に常陸の稲田の地に一宇の草庵を営む許しを得ると師の法然が何度も読破したという、

「一切経」を求め東国の常陸に旅立ったのである。途中越後に寄り、残した妻子を伴う旅であった。道すがら

飢饉による農民の困窮に何も手助け出来ず、自らの力の限界を知り唯々人のため何千回も念仏を唱えるだけの

自分を知り、念仏は人のために唱えるものではなく人が自らの為に唱えるものと知る。

常陸の稲田に落ち着いた親鸞はそこを中心に精力的に「一切経」に取組んだ。親鸞はこの「一切経」を紐解き

ながら、手本にし浄土思想に関する資料を集め研鑽し「顕浄土真實教行証文類」即ち“顕す浄土の真實の教え

の行を証す文の類い”として書き留めた。浄土思想に関するメモランダムである。

これが後に縮められ「教行信証」と言われるものになる。

 

京から妻子づれの僧が来て草庵を営んでいることは地域社会に知れ渡っていった。藤原貴族の出で今流行の

浄土念仏宗の開祖、法然の高弟と知れるにそれ程、時間はかからなかったであろう。親鸞は自ら地域に溶け

込んでいった。時には近郊の農民の手伝いをしながら念仏を唱え踊りだしたという。庶民に小難しい説教や

経文は要らない。ただ南無阿弥陀仏の念仏を唱えるだけで事足りるとした法然の教えはここに来て「一切経」

に取り組んで始めて解った。どんなに学んでも師の法然を越えることは出来無いことを知った。

理論ではなく実践であること知識は師の法然に任せて“たとへ地獄へ落ちようとも法然の言動を信じまいらせ

そうろう”と自分たちには念仏だけで阿弥陀仏に因る他力本願にて救われると説いた。    【完】

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